退職を決めた理由はふたつあった。ひとつは、残された時間が意外に少ないということだ。新しいものに取り組むのであれば、なるべく早い方が良い。歳をとってくると頭も体も気力もついてこない、仮にできたとしてもそれを使える残された時間は少ない。
失敗する時間も少ないことでもある。例えば、定年後の65歳から3年かけて新しいものにチャレンジして、うまくいったとしてもそれを活かして楽しもうにも、健康寿命70歳までとすると残りわずか2年しかない。これではもったいないと思う。
やはり、この年齢になると、自分の残り人生をどう後悔なく過ごすか?考えてしまう。
つまらない事に時間と労力を無駄に費やしている場合ではないのだ。
早くスタートしないと、やった事の成果を十分に享受する前に健康寿命を迎えてしまう。何もしないのではなく、何も出来ない状態になってしまう。
これからの人生は逆算であると思う。平均寿命80歳、健康寿命70歳とすると残りの人生に時間がないことに気付く。何かやるにしても、失敗できる時間もどんどん減ってくる。
65才まで働けば、もっと収入を得ることが出来たかもしれない。でも、自分らしい暮らしには、そこまで要らない。それより、自分の時間が無くなる方が嫌だと思った。
時間の切り売りは御免である。結局、会社員は会社のために自分の時間どころか身体を切り売りしているのと同じであると思う。いずれ尽きてしまう。そんなのは、冗談じゃないと思った。会社から給料をもらっているので仕方ないかもしれないが一日の大半どころか、ほとんどの時間を会社のために費やしている。
それであれば、収入が減っても自分のために時間を費やすることにして、残った時間を有意義に活用することを考えるのもありではないか。
何かやるのであれば、自分のためになる経験や知識の蓄積となるかどうか、または自分のスキルアップにつながる内容であるかどうかが大事かと思う。そうでなければ、単なる時間と労力の浪費に過ぎない。
そんなことを悶々と考えている中、もうひとつの理由となる、ある出来事が起こった。
わずか1ヵ月余りの中で2人の知人に不幸があった。ひとり目は、学生時代の友人の家族で、もうひとりは、会社時代の同僚の奥さんだった。非常によく知っている奥さんだった。
始めはこのことが納得できず、なぜそういうことになるのかわからなかった。その後、別の友人から言われた言葉で納得がいくことができた。
それは「いつまでも生きられると思うなよ」と言う言葉だった。つまり、やりたいことがあるのならば、やれることから生きているうちにどんどん進めなさいと言うお告げではないかと思った。
この言葉によりこれまでの一連の出来事がつながったような気がした。
世の中には、死にたくなくても亡くなっていく人がいる。自分は、たまたま今生きているが、明日はどうなるかわからない。
いつ死ぬかわからないのだから生きている間に精一杯人生を生きなさいと言う話かと思った。どうするか迷っている自分の背中をこの出来事が後押ししてくれたような気がした。